「報われる」って何だ?
偶に聞きます。「◯◯さんには報われて欲しい」「あんなに頑張っているんだから報われますように」
「報われる」…。
ちゃんと結果を出しているんだから、劇団さんそこんとこ評価して相応の扱いをしてあげてよ。
ってことでしょうか?
まあ、分かります。それはそうだ。それが人情ってものです。
しかし…宝塚ファンを長くやっていると、そんな単純なものではないことが分かってくる。そんなの嫌だなぁと思うけど、「頑張った」だけでは何も変わらないことを宝塚ファンは知っている。
どんなに頑張っていようと、人気があろうと、ダメな時はダメだと…残念ながら知っている。
一番近々の例が美弥るりかさんなのだろうけれど、別に彼女の話をしているわけではないのです。
もっと漠然とした、なんとなくの話。
「報われて欲しい」という言葉に、私は何故か抵抗を感じます。
頑張っているから…は、当然皆んな頑張っているはず。結果を出しているから…なら、まあ理解出来る。ちゃんと結果を出しているのに何故か劇団からは評価してもらえない。よくあることです。
でもその「結果」って何なのだろう? 単に舞台上でのこと? 人気? 人気は何で測る? お茶会人数? 入出人数? グッズの売り上げ? うーん、分からない……。
報われる…報われて欲しい……人としては分かるのに、それが宝塚の人事となると途端に分からなくなってしまいます。
なんとなく感覚的に「報われて欲しい人」と言われるようになったら終わりって気がします。何故と問われても上手く答えられません。
長く宝塚ファンでいた(ブランクはあれど)勘のようなもの、でしょうか。
劇団の人事は確かにファンの思いとは別のところにある。内部のことは知りようがないし興味もない。
私ならこうするのに、ああするのに…は、まああります。ありますが、それが実現されるべきとは思っていません。いやちょっと違うか。実現なんてしないことを知っている…ですね。
正直、私は劇団を信用なんかしていません。今の理事長はマシには思えるけど、劇団の方針は理事長だけで決まるものではない。
一つ扉の向こうはもはやブラックボックス。私たちには理解出来ない世界。
思考停止は良くないことだけれど、どんなに考えても答えの出て来ない問題に囚われ続けても時間の無駄ではなかろうか。
かつては劇団のやることなすことに一喜一憂し、怒り、泣き、呪いもした。
でも今は何でだか、心を動かされない。動かないようにセーブしているのかもしれません。
私は今ただの楽しみの一つとして宝塚を観ている。楽しくなくなったらサヨナラです。執着はしていないつもりです。振り回されたくないのです。イニシアチブは私が取りたい。宝塚が私を選んだのではない、私が宝塚を選んだのです。だから捨てる時も私が捨てる。
実際ファンに出来るのは、「観るか観ないか」だけではないでしょうか? グッズなどを買う買わないもあるのかもしれないけど、あまり関係がないように思えます。
抗議の意は客席を埋めないことでしか表せない。それ以外はおそらく無意味。目に見えるのは客席だけ。些細なことです。
「報われて欲しい」人が報われない。でもそれが宝塚。宝塚だけでもないですかね。芸事の世界はそんなものです。「報われる」なんて感覚で皆んな生きていない。そんな優しい世界ではない。
宝塚ファンやっていたら、そういう感覚になりません?
人としてはなんか間違っている気がしますけどね……。
早く人間になりたい女S・不二子