壬生Revolution 3
「概念としての銀橋」。長らく宝塚を観てきてそれについて考えたことがなかったことに気が付きました。いや、考えるというのは少し違うか。
「個人的『なんでやねん』について語りたい」
ってところです。つまりは何が言いたいわけさ?
宝塚ファンにとって当たり前のように存在する「銀橋」。道路になったり通路になったり地下道になったり橋になったり、或いは時間の経過や距離の遠近を表現する為の装置ともなり。
八面六臂の活躍を見せるカーブした細長い舞台ーー銀橋。
当たり前過ぎて疑問に感じたことがなかったのですが、ツイッターとかでチラホラ散見される感想の一部に驚愕した事実。
今作「壬生義士伝」ラスト近くの彩風咲奈さん演じる大野が吉村の死後、歌いながら銀橋を渡り切ったところで撃たれたらしき音と照明の下セリ下がって行きます。
原作での大野の最期をまだ存じておりませんが、この舞台の大野はこの後戦地に赴き死したのだ、それを暗示しているのだーーと私は解釈しております。というかそれ以外の解釈があるなどという発想すらなかった。
しかし、このシーンの「意味がわからない」という声を聞くのです。私は驚きつつも考えました。
「もしかしてあそこのシーンの銀橋を物理的なもの、具象的な存在と受け止めているのでは?」
そう思っているならなるほど「銀橋を渡ったら死んだ。意味わからん」のも無理はない。さっきまで屋敷に居たもんね大野。
ーーって、なんでやねん!
気づけよ! そんなわけあるかい!
銀橋を普通の道とだけ考えたらその前からのシーンだっておかしいだろう。吉村なんか何回も銀橋で歌っているよ? 道でええ声で歌っている変な人やん!
銀橋(エプロン・ステージ)を持つ劇場は宝塚だけではないですが、常に使用している・銀橋を使うことを前提に作品が創られている、という意味では宝塚独特の機構と言って良いかもしれません。
様々な用途に応じて存在を変えるのが銀橋というものです。
物理的な道としての役割も担っていますし、もっと抽象的な表現をする場合にも使用されます。それが距離の概念、時間の概念です。銀橋を渡ることで本舞台からずっと遠くへと旅立ったり、離れた場所にそれぞれが居ることを表したり。
また銀橋の端から端を渡る間に実際よりも遥かに時間が経っていることを表現したりもします。
果たして私は「いつ」その概念を理解したのか? おそらく初めて観た場合、特に考えもなかったと思います。小学生でしたしね。
タカラジェンヌになりたいという子供らしい憧れもありましたが、演出家になりたいとも思っておりました。当時は女性は演出家にはなれなかったのですけど。
脚本とも呼べないような駄文を書いたり、演出プランを考えたりしてましたよ。不満のある作品を自分なりに書き換えたり。
中学生の時点でとっくに銀橋をプランに入れた演出を考えておりました。たぶんもう理解していたと思います。
「銀橋」の名がついている通り、彼処は「橋」。橋であり、その両側は端。上手と下手の端同士は実際以上に遠いのです。
スターシステム的には銀橋の端から端を渡り切れるのは「スター」だけです。これまたある意味非常に「遠い」。
橋には『橋姫』という妖の姫が住むと言います。銀橋もまたこの世ならざる空間なのかもしれませんね。
初舞台生はある意味主役だから良いの・不二子